錦生を知る Know

錦生の歴史



錦生は、万葉の昔から東西交通の要衝として開けた地で、
歴史の舞台としても日本史の表舞台に何度も登場します。



<日本書紀の時代>


7世紀、日本書紀には、天智天皇死後の皇位継承をめぐる壬申の乱で、甥・大友皇子と争った大海人皇子(のちの天武天皇)が東国へ進軍する際に名張を通ったと記されています。鹿高地区にはこの時の逸話として白鹿伝説が伝承されています。



<荘園として発達>


平安~鎌倉時代には、名張は東大寺の荘園として人が集まり、集落として発達します。特に「黒田庄」は、わが国の荘園研究でもっとも有名な荘園です。奈良時代に東大寺領板蝿杣として始まり、出作地の拡大、悪党の出現、衰退へと中世荘園制度の典型的な事例として、奈良東大寺に多くの文献が残されています。その中で、錦生地区は黒田を中心とした黒田本庄と呼ばれ、また、宇陀川右岸は黒田新庄として矢川地域に別所がおかれ、荘園経営の中心地でした。



<戦国時代>


悪党と呼ばれた武装した荘園の自治組織は、独特の戦闘知識や薬学体系を背景に、後に忍者と呼ばれる存在となります。その中でも伊賀忍者は有名で、その中でも支配的地位にあった上級の忍者(上忍三家)の一部は名張に拠点を置いていました。16世紀の終り頃、天下布分を目指す織田信長親子による伊賀忍者殲滅作戦「天正伊賀の乱」が二度にわたって展開され、名張の地は文字通り焦土と化しました。錦生地区も初瀬街道沿いに進軍してきた浅野長政、新庄駿河守勢によって、蹂躙されました。



<江戸時代~藤堂藩の城下町>


1608年に伊予から藤堂高虎が転封、明治の廃藩置県まで藤堂藩の統治が続く。黒田、結馬地区は、高虎の養子であった藤堂高吉(名張藤堂家の祖)の所領でした。



<宿場町からベットタウンへ>


現在の名張は、伊勢参りの宿場町が原型です。明治以降も小規模な地方鉄道が出来ただけで、交通の便に恵まれませんでしたが、1930年に参宮急行電鉄(現在の近鉄大阪線)が開通し、発展の礎となりました。1980年ごろからは、大阪・奈良のベットタウンとしてニュータウン造成が進み、人口も急増しました。

投稿時間 :2012年09月19日(水)10時50分57秒

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