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秋葉信仰

1.秋葉信仰の概要

 

 

(1)不鮮明なことが多い秋葉信仰・・・資料1

 

 

大きく3つの理由から、秋葉信仰の由緒や全体像をつかむことは、容易なことではないといわれている。

 

 

① 明治維新の神仏分離政策によって、大打撃を受け、文書資料がほとんど失われているため、研究の手がかりが極めて少ない。

 

 

② 厳しい本末関係がなく、各地に秋葉信仰の拠点が分立し、微妙に異なった所伝を持っている。教義の体系化を図らず、民間信仰とし終始してきた。

 

 

③ 非常に多くの神社や寺院(曹洞宗、天台宗、真言宗)に秋葉権現が祭られており、全てを把握することは容易ではない。

現在約90,000の神社本庁傘下のうち、約800社の秋葉神社、境内社を含めると約4,000社。曹洞宗約13,000寺のうち約1,500寺に秋葉権現が祭られている。

 

 

 

(2)秋葉信仰の定義・・・資料1-3

秋葉信仰について、吉田俊英氏は「秋葉山及び秋葉権現に対する信仰である」と定義している。

 

 

(3)秋葉権現について・・・資料1-3

 

“秋葉権現”という言葉が、これまで曖昧に使われてきたという背景から、吉田俊英氏は、秋葉権現を次の3つに整理した。

 

① 秋葉山に鎮座まします神。すなわち秋葉山の山岳神。狭義の秋葉権現とする。

 

 

② 修験者三尺坊を神格化したもの。秋葉三尺坊権現のこと。

 

 

③  ABの両者が、混然一体となったもの

また、①の意味で使われている秋葉権現と、秋葉三尺坊権現はもともと別個に扱われていたが、時代の経過と共に両者は混同されたり、習合を試みられたりしてきた。

「当寺(秋葉寺のこと)の鎮守の神は延喜式内小国神社と号し、神体は大己貴命(おおなむちのみこと)、これを秋葉権現と称す。一山護神に三尺坊を同社と肥る。」

『東海道名所図会』

 

 

基本的な図式としては、秋葉山(もしくは秋葉山の神)に対する信仰があり、そこに修験者三尺坊を神格化させた三尺坊権現信仰が到来し、両者が複合混同され、秋葉信仰が成立したと考えられる。

 

 

 

(4)秋葉信仰のご利益・・・資料1-2

今日秋葉信仰といえば、その祈願内容の大部分は鎖防火燭であるが、火防以外の祈願もいくつか認められており、中でも戦勝祈願雨乞いは重要との指摘がある。
① 鎖防火燭について:三尺坊が感得した秘法といわれている。(秋葉山HP(名古屋市熱田区)より:<http://www.geocities.jp/kamankara/text/etc/akiba.html>
② 戦勝祈願について:城の中や屋敷の中に秋葉権現を禮る武士が、かなりいたようである。現在も本宮秋葉神社に刀剣類が所蔵されている(現在国の重要文化財に指定されている3本を含めて五十数本)。

③ 雨乞いについて:雨乞いのために秋葉山に来るという例は、秋葉山周辺にも、信州伊那地方にも、尾張地方にも認められる。

参考


「秋葉山が火防の神として信仰されたことを示す最古のものは、現在知られている範囲では慶長八年(1608年)4月湖日の日付を有する駿河国田中瀬古村の秋葉社の棟札である」と言われている。・・・資料1-4

 

 

 

(5)地域独自の行事儀礼・・・資料6

秋葉信仰は、地域での独自の行事儀礼によって支えられてきた。「神事」や当屋、供物の「落雁」「白餅」等の存在と活用を通して地域の秋葉信仰は形をなしており、その土台は地域に歴史上残るさまざまな行事や儀礼、習慣であると考えられている。

 

 

 

2.秋葉信仰の由緒

 

(1)縁起に関連する書物・・・資料7

 

秋葉信仰で拠点とされていた複数の社寺の伝書において、記述されている縁起の根拠の有無や妥当性について、田村貞雄氏が検討している。

同氏は、寺社の所伝に記載されている縁起は、口頭伝承を近年文章化したものが多く、当主の代替わりによって、伝承自体あやふやになりつつあると指摘している。一方、白山信仰との関わりを示す泰澄伝説を持つ小田原と熱田の所伝は、近世初頭以前の古伝と考えられると述べている。   (この資料はまだ読み込めていません)

 

 

(2)秋葉信仰の飯縄権現、白山権現からの発生説・・・資料1-3、資料4

秋葉信仰は飯縄権現、白山権現からの発生説→武井正弘氏、天野信景氏など

武井氏の説…吉田俊英氏は、武井氏の見解は示唆に富んだものであると述べたうえで、資料的根拠が示されていないことから、不明瞭であることを指摘している。(資料1-3)

天野氏の説…田村貞雄氏によって次のように紹介されている。「本論の主題である遠江大居城の天野氏の子孫天野信景は、『塩尻』の著者として、多くの記録を残している。信景は、先祖ゆかりの故地犬居を訪ね、秋葉山の修験者から秋葉は戸隠飯繩の分れであり、ダキニ天であることを聞いている。」

 

 

(3)遠州秋葉信仰の伝来・・・資料1-1、資料4

遠州への秋葉信仰の伝来時期は、武田氏と断交した徳川家康が越後の上杉謙信に密使叶坊を送り、その叶坊が長岡の蔵王堂三尺坊の院主を連れ帰り、秋葉山に住まわせた時期(永禄11年、1568年頃?)からとされている(坪井俊三,1998)。

また、坪井俊三氏は、秋葉信仰の発生について徳川氏関係文書を精査して、1569年から家康の起請文に秋葉の名が登場することを指摘している。このことから、それ以前の遠州には秋葉信仰は存在しなかったことが推定されている。

 

 

三尺坊

 

 

①秋葉信仰における三尺坊の重要性・・・資料1-3

 

吉田俊英氏は、秋葉信仰というと、一般には秋葉三尺坊権現のことを思い浮かべる人が多く、『国史大辞典』にも秋葉信仰の欄に記載されていることなどから、秋葉信仰における秋葉三尺坊の重要性を指摘している。

また、同氏は、秋葉三尺坊権現とは、修験者三尺坊が神格化された(した)ものであると捉え、他国の山岳霊場においてすでに三尺坊が神格化されていて、各地の修験者が交流する過程で、秋葉山に三尺坊権現が勧請されたと考察している。

 

 

②三尺坊の整理・・・資料1-3

吉田俊英氏は『遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊大権現略縁起』から次のように整理した。

ⅰ)三尺坊は信州の生まれで、母親が観音信仰に篤く、三尺坊を身ごもる時、観音が迦櫻羅身の姿で現れる夢を見た。

ⅱ)六、七歳で出家して、修行の後阿闇梨となり、越後国蔵王堂十二坊中第一の三尺坊の主となる。

ⅲ)不動三昧の法を執行したところ、鳥形両翼にして左右に剣素を持った姿(観音の化身迦棲羅だといわれている)となった。

ⅳ)白狐の背中に乗り空中を飛び、に秋葉山に着いた。

ⅴ)その後諸国を巡りに行き、1294年に秋葉山に帰って来て神となった。

ⅵ)三尺坊に祈願することによって、13の難を逃れることができる。

 

 

③三尺坊という名前・・・資料1-3、資料3

越後蔵王堂が新潟県栃尾市にあり、修験道の一大中心地であったといわれている。この蔵王堂が盛んであった時代に、十二の坊堂が立ち並んでいたといわれており、その一つに三尺坊という坊堂があった。そこに住んでいた修験者が後に三尺坊権現と神格化されて祭られるようになったといわれている。

また、明治になって修験が廃止されると、蔵王堂・蔵王権現社という名称から金峰神社(天台宗)という名称に変更された。さらに、中世末期には上杉謙信によって、現在栃尾市上谷内にある常安寺(曹洞宗)に移管された。

 

 

④神か仏か・・・資料3

三尺坊権現は、本来、神・仏の区別はされていなかったが、明治の廃仏棄釈によって、秋葉神社に祭られたり、お寺に祭られたりした。

 

 

4)秋葉山の祭神と三尺坊の勧請

・秋葉山頂には、いつのころか、秋葉社の別当を勤める秋葉寺が建立された。『遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊大権現略縁起』によると、秋葉寺には、聖観音(しょうかんのん)、十一面観音、勝軍地蔵が祭られていた。吉田俊英氏によれば、これらが秋葉山にそろうようになったのは、室町時代以降であったと推測している。

三尺坊権現については、吉田氏は客観的資料がない中で室町時代中期頃には秋葉山に勧請されたと推測していた。しかし、坪井俊三氏は、長年の地方研究の中で中世に秋葉寺の存在を示す資料は見つけられていないと指摘しており、特に「武田信玄の家臣たちが提出した起請文には、信濃・甲斐等の国人が帰依する神仏が六十余り挙げられているが、秋葉の名は見当たらないとのことである」と述べている。このことから、吉田氏は、「少なくとも戦国時代にあって、近隣の地域にまでその存在知られるほどではなかった」という見解を示している。・・・資料1-2

・秋葉山には、「秋葉の神」というものは特に祭られておらず、秋葉山自体がご神体だったようである。明治の廃仏棄釈の後に秋葉山に神社を御祭りするために京都の愛宕神社から「火之加具土之神=ひのかぐつちのみこと」を勘定したようである。・・・資料3

 

 

 

.遠州秋葉信仰と土着の信仰とのかかわり

 

(1)秋葉山に連なる聖山・・・資料1-2

秋葉山の尾根筋を北にたどると、竜頭山(1351.6m)→井戸口山(1334.8m)→常光寺山(1438.5m)→ 麻布山(1685.1m)という信仰に関わる山々が連なっている。

野本寛一氏は、『掛川志稿』から、本宮山→秋葉山→竜頭山→井戸口山→条項寺山→麻布山という、聖山を結び連ねる遠州の尾根道が浮上すると指摘している。また、このラインは修験料撒の道と考えられ、そのおのおのの拠点は修験以前の土着信仰、たとえば、焼畑農民の防火・害獣除けの信仰・塩の運搬者の山犬除けの信仰・漁民の山当て信仰などを基層として内包していたと考えられることから、南北の聖山ラインも、また秋葉山の信仰環境の特色の一つだと指摘している。

 

 

(2)秋葉の水・・・資料1-3

秋葉信仰の信仰環境要素として重要なものの1つに、「山上の井戸」があげられている。野本寛一氏は、「秋葉山が聖山として信仰された要因の一つに、八〇〇メートルの山上に湧出する清水がかかわっていたことはまちがい」と指摘している。

秋葉神社(浜松市秋葉山)上社境内から20mほどの窪地に井戸があり、その主、水神は「蝦蟇(ガマ;ヒキガエル)」によって表象されている。この霊性は、水神的側面を強く示すものであり、大旱の年にこの井戸の水を替えて雨乞いが行われるなど、秋葉山は雨乞いの山としても信仰されていた。野本氏は、「最も重要なことは、この水に対する信仰こそが、あの絶大な防火神・火伏せ信仰の根源になった-略-素朴で土着的な水の信仰が、やがて修験道と結びつき、火伏せ信仰として展開されてゆくのである。」と述べている。

 

 

(3)秋葉と火(資料1-3)

野本寛一氏は、「焼畑農民は延焼による火の危険を熟知し、延焼防止に殊のほか心をくだいてきた。その延焼防止の呪術の一つに、防火の神札を焼畑地に立てて祈る方法があり、「秋葉札」はその中心であった。」と述べ、「火の扱いを初めとして、山の開拓・木のぼり・採集食物・雑穀の利用など、修験道の技術や呪術の基層に、焼畑農民の土着的な民俗文化が大きな底流をなしていることはまずまちがいない。焼畑農民が延焼防止として行う火叩きと火伏せの芸能の間には、嘆くほどの類似性が見られる。」と指摘している。

また、秋葉札の事例として以下が挙げている。

・焼畑地の上部に、竹の皮にはさんだ秋葉札を立てて、火の安全を祈ってから火を入れた。

・火入れのときに秋葉さんの札を立て、神酒をあげて祈ってから点火した。

・焼畑の作畑小屋の正面に神棚を作って秋葉札と山の神を祭り、火入れの安全と豊作を祈った。

・焼畑の上部をハカチと称し、ハカチの中央にスズ竹にはさんだ秋葉札と山の神幣を立て火の安全を祈った。

・焼畑地の上部真中に、五尺ほどの椎または樫の枝を先が交わるように二本立て、その真真中へ、竹に挟んだ秋葉札と山の神の幣を立て火の安全を祈ってから点火した。

 

 

(4)秋葉信仰という呼び名(資料1-3)

1)『掛川志稿』の「機織井」に、「本社の西北にあり。縁起云、秋葉寺と号する意趣は、上古此山水なかりける故住僧なけきて、観音及守護神へ祈祷しぬれば、三尺坊観世音巻属天竜鬼神感応ありて、山上震動雷電して、一夜の中に西北の隅に清水涌出たり。時人歓喜踊躍して、水中を見れば、潔くして白玉二つあり。又蝦蟇一匹背に秋葉の二字をいただき游き来る。因て寺を秋葉と号ず。-略-」という記述がある。

 

 

2)野本寛一氏は、遠州の方言として、アオキ(ミズキ科の常緑低木)をアキバと呼ぶこと、アオキの葉の呪力・薬効・陀羅尼肋的な利用、防火呪力伝承など、秋葉信仰とアオキに関わりがあった可能性を指摘している。

 

例)

・静岡県磐田郡水窪町大野では、アオキの葉を「アキバ」と呼ぶ。オーキバと呼ぶ地もある。アオキの葉にはさまざまな薬効があると伝えられる。

・参・信・遠国境山地では、アオキの葉をミソキバ・ミソバとも呼び、味噌を作るとき、この葉を麹の熱もたせに使ったり、味噌桶の蓋がわりに使った。

・静岡県藤枝市・島田市・岡部町など千葉山智満寺(天台宗)の信仰圏では、一月一七日と四月一七日に、智満寺境内のユーズー神様からアオキの小枝をいただいて帰り、門口に吊るしておく。千葉集落の人びとは、アオキの葉は火伏せになると伝える。

 

 

 

4.秋葉信仰の波及

 

 

(1)武将・大名の間での信仰

「一般に秋葉信仰は神仏集合思想に端を発し、平安~鎌倉時代を通じて修験道の発達とともに形成され、やがて秋葉寺の諸仏のなかに勝軍地蔵があることから武将・大名などの信仰をとりつけたといわれている。」・・・資料1-4

 

 

 

(2)庶民への広がり

「秋葉山は、すでに一七世紀には火防の神としてこの地方で庶民の信仰の対象になっていたのである。この時期、庶民の多くは小農として自立するとともに単婚小家族化が進み、それを基盤にして新たに家屋敷を確保しつつあり、同時に「イエ」の永続意識が急成長しつつあったから、それを死守するためにこの火防の神が極めて重要であったのである。この時期における秋葉山に対する信仰圏については、どの程度のものであったのか明確でない。おそらく駿河・遠江・三河国内か、広くても東海地方がその範囲であったと考えられる。しかし真享二年(1685年)4月頃からはじまった秋葉祭が、秋葉信仰の範囲を一挙に拡大した。」・・・資料1-4

「明治維新直前のええじやないか」における降札で、 東海地方を中心に伊勢札を圧倒したのは、秋葉札であった。東日本からの伊勢参りの8割は秋葉山経由であった程、秋葉信仰は全国に広がっていた。」・・・資料4

 

 

 

(3)秋葉道の発達

 

「江戸時代になると、多くの庶民が物見遊山や社寺参詣を建前としつつも、実質的にレジャーを兼ねる旅に出掛けるようになった。東海道から分岐して山道を迂回する秋葉道に全国各地から旅人が訪れるようになったのは、江戸時代のこうした一般的な旅の傾向のなかでの一現象でもあった。」・・・資料1-4

 

 

「江戸時代以前にも生活・信仰などを目的とした旅人は多かったが、江戸時代になると物見遊山の旅を含めて庶民の旅の多様性が急速に進んだ。」・・・資料1-4

 

 

「秋葉山への道程はいくつかあるが、いずれも急峻な山道や天竜川の渡船もあり、また関所制度とのかかわりもあってかなり厳しいものであった」

 

 

「江戸時代中期以降には、掛川宿-秋葉山-鳳来寺-御油宿の道筋を一般に秋葉道・鳳来寺道と呼んでいるが、これ以外にも遠江国とその周辺の国々には秋葉道と呼ばれた道筋が多くある」・・・資料1-4

 

 

「地元で秋葉道と呼ばれている道筋は、東海道の掛川・浜松・御油宿から分岐するもの以外にも多くある。」・・・資料1-4

 

 



 

 

 

(4)常夜燈から見た秋葉道・・・資料1-5

遠山氏は、秋葉山常夜燈の建立を、秋葉信仰が民衆に浸透した指標と考え、三河を対象に、秋葉信仰の形成のされ方、変容を考察した。その中で、次のような秋葉街道の概略図を示している。

 

 

 

 

図 全秋葉道(秋葉街道)の概略

図 秋葉街道旅程図(岡崎市伝馬通 杉山家所蔵)

 

 

 

資料1-1 「秋葉信仰」民衆宗教史業書第31巻 序論-秋葉研究史素描 田村 貞雄

資料1-2 「秋葉信仰」民衆宗教史業書第31巻 火と水の信仰 野本 寛一

資料1-3 「秋葉信仰」民衆宗教史業書第31巻 秋葉信仰の成立 吉田 俊英

資料1-4 「秋葉信仰」民衆宗教史業書第31巻 東海道と秋葉街道 渡辺 和敏

資料1-5 「秋葉信仰」民衆宗教史業書第31巻 秋葉山常夜燈から見た秋葉街道 遠山佳治

資料3   秋葉信仰あれこれ、関口洞潤、秋葉山総本山

資料4   遠江への秋葉信仰の伝来と分岐、田村貞雄、『国際関係研究』、第30巻1号、平成21年10月、pp57-64

資料5   秋場信仰の根元「三尺坊」、藍谷俊雄、秋葉山秋葉寺、村田書店

資料6   宗教研究、72(4)319、第57回

資料7   東海地方における秋葉信仰の序幕-貞享秋葉祭の流行について、田村貞雄(HPより)

 

投稿時間 :2012年09月11日(火)05時33分58秒

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